四面楚歌の真相
孤立無援、絶対絶命を意味する故事成語としてお馴染みである。
紀元前202年の垓下の戦いで、楚の項羽が敵から多くの楚歌、つまり自分の国の歌が聴こえたことで絶望したという史記の記事から由来する。
しかし、少しでも読書に慣れていて推理能力があれば、この記事に矛盾があることがわかる。
四面楚歌の推移はこうである。
○広武山の戦いで項羽と劉邦が講和する。
○食糧不足の項羽軍は本拠地の彭城(徐州)に向け退却を始める
○この間劉邦は各地の勢力に連絡を取り、劉邦軍は120万に膨れ上がる。
○すでに敵が攻めていた彭城に戻れず、さらに楚の本国(だいたい淮河以南)の留守を任せた周殷が裏切ったことで行く手を失った項羽は淮河の北にある垓下に籠る
○垓下の攻撃は劉邦の配下だった名将で、この時斉王(今の山東省付近)であった韓信の軍30万が行った。
○項羽は何回か韓信と戦ったが兵をほとんど失ってついに追い詰められた
○その夜韓信の部隊から楚の歌が多数聴こえてきた
○それを聴いた項羽は自分の国の人が多数敵になったと絶望し、酒宴を開いて明日精鋭とともに突破すると決めた
○足手纏いになる虞美人はこの時自害した
○翌日垓下を数十騎で脱出した項羽は漢軍を蹴散らしながら南下するが、烏江(長江)のほとりにたどり着いた時はただ項羽1人になった。
○川を渡れば逃げられると言う船頭の言葉を聞かず漢軍が近づくと自害した
この中で、昔から問題視されていたのが、楚歌をうたった人達が韓信率いる斉兵30万ということである。
始皇帝の統一(紀元前221年)から19年しか経ってなく、それまでは斉と楚は別の国であり言語も文化も違う。
斉兵に楚歌を覚えさせるのは、江戸時代の津軽の人に琉球の民謡を教えるようなものである。
1日や2日で覚えるわけがない。
歴史小説家達もここで首を捻った。
司馬遼太郎は物理作戦を好む韓信が戦意を喪失させる心理作戦をするのは彼らしくないとして、歌は楚の歌ではなく項羽が聴き間違えたと推理している。
司馬遼太郎の大学の同窓生で歴史小説家だった陳舜臣は逆に、韓信は心理作戦が得意だったから韓信の作戦であると解釈している。ただ、韓信の率いた斉兵が楚歌を歌えたか、もし違うなら誰が歌ったかはふれてない。
上記の経過をみるともう一つ矛盾がある。
司馬遼太郎も指摘していたが、項羽は垓下に入る前に楚の留守をさせていた周殷が劉邦に寝返ったことを知っている。だから垓下という半端な場所に籠ったのである。
垓下の南、九江や六辺りはもともと項羽の部将だった黥布の勢力圏で、彼は早くから劉邦に味方していた。一時黥布は項羽によってこの地を追われていたが、垓下の戦いの時点では元の領地に返り咲いていた。
すでに項羽は楚人がたくさん敵に回ったことを知ってから垓下に入ったのだ。
最後、垓下から脱出した項羽は、はるか南の長江まで辿り着いている。
韓信は背水の陣が有名であるが、自分達を囮にしても敵を逃さず討ち取る作戦を取ってきた。
仮に韓信の作戦としても、項羽がその気になれば長江の南に逃げられたのだから作戦は失敗である。
また項羽もせっかくはるばる長江まで逃げてそこで自害するなら、垓下で自害しても大差ない。
このように辻褄が合わないことが多い。
同じ史記の記事でも項羽の最期について、四面楚歌もなく、単に垓下で劉邦の部将灌嬰の軍に捕らえられて殺されたというものがある。
実は烏江のほとりで項羽軍を追撃してきたのもこの灌嬰だった。なぜか韓信は追撃していない。
歴史学者達は史記は伝聞や地元の伝承をそのまま載せるため、四面楚歌の話は創作であるとする。
最後の脱出の話も脆くも滅びた天下人に対する判官贔屓があったという。
四面楚歌もなく、垓下であっさり戦死したのが真相に近いらしい。
虞美人については花の名にもなっているが、史記では姓は虞、漢書では名は虞となっている。こちらは実在しなかった可能性が高いとされる。