史実の見極めのむずかしさ
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2022/03/10/161024
武田勝頼は武田家を滅ぼした凡庸な人物という評価が定着している感があるが、実際は武田信玄が滅亡の種を蒔いたといえるかもしれない。
武田信玄、上杉謙信はどちらも後継者をきちんと決めずに家に禍根を残した点、三国志の袁紹や劉表に似ている。
武田家滅亡のきっかけとなった長篠の戦いもよくわかっていないらしい。
古来、新兵器の鉄砲が威力を発揮した戦いとして知られるが、有名な三段打ちは伝説としても鉄砲が活躍した証拠はない。
確かなのは武田家がたくさんの主要な部将をたくさん失ったことである。
今川義元を織田信長が討った桶狭間の戦いも信長の奇襲が近年否定されている。
これまで史実と考えられたことが覆ることは案外よくあることで、有名な四面楚歌も単なる伝説とされている。
まして人物評価はなお難しい。
徳川綱吉は犬公方と呼ばれて暗君の代表とされていたが、今は15代の将軍の中で屈指の名君とされている。
彼が掲げた文治政治、特に無用な殺傷を禁じるために出したのがあの生類憐みの令だと言われている。
行き過ぎがあったのは確かだが、一定の効果はあったらしい。
上記文中ではルイ16世が例として挙げられているが、実は本人は名君だったにも関わらず制度疲労により国を失い後世暴君の烙印を押された人物としては殷の紂王を挙げたい。
酒池肉林や炮烙の刑という悪政を続けて周に滅ぼされた紂王は、20世紀に殷の都の跡である殷墟が発掘され、大量の甲骨文が発掘されると、実は政治熱心で遊んでいる暇がなかったことがわかっている。
(なお殷の紂王は周の命名で、甲骨文では帝辛と表記される)