cosmos369luckyの日記

歴史や城などについて語ります

江戸城大天守再建反対論

かつて大天守をもつ城があった政令指定都市天守がないのは江戸城だけである。

札幌や横浜、神戸、新潟にはそもそも城がなく、仙台には天守がない。福岡は天守の存在が曖昧だったが、最近あったと結論づけて再建に走っているようだ。感心できる話ではない。

ただし江戸城の大天守再建の話はかなり前から存在した。未だに具体的な進展はないが間違えたら実現しそうである。

自分としては江戸城天守再建には賛成できない。このまま再建されなくて良いと考えている。

 

その理由をあげていこう。

 

まず江戸城天守が失われたのは1657年明暦の大火の時である。

その後は大天守の再建がなく明治を迎えた。

つまり江戸城は大天守がない方が常態だった。

 

しかも江戸城天守は2回改築されており、場所も違う。再建するとしたらいつのものを再建するのだろう。

 

なお、今ある天守台は明暦の大火で大天守が失われたあと、加賀藩が作ったものである。

実際には保科正之の意見により天守は作られていない。

この天守台を土台に天守を作れば、実際にない天守を作ったことになる。

それは史実に反した存在であり、現在ある天守が史実無視でも天守台の上に実際に天守が存在した大阪城より下の価値しかなくなる。

そんなものを作って、果たして嬉しいのだろうか?

 

また、江戸城には"現存天守"がある。

富士見櫓というものが代用天守として江戸時代からずっと今も存在する。

富士見櫓に倣って三層櫓を天守代用とした城も多い。そういう意味では江戸城には天守が"ある"のだ。

今さら史実に反した訳の分からない大天守が必要だろうか。

 

江戸城については、訳の分からない大天守を再建するなら、江戸幕府の中枢であった御殿群を再建すべきだろう。松の廊下とか歴史的な舞台となった場所を再建したほうがよほど見応えがある。

 

そもそも近代的な超高層ビルに囲まれたあの辺りでは、天守からの眺望など期待できない。

 

ビルを見るために"ビル"を作るのは無駄じゃないか。

江戸城天守イコール城という間違えた概念を覆すような復元を切に望む。

だからこそ大天守再建には反対する。

 

 

 

 

 

 

 

城再建ブームへ苦言

空前の城ブームとかで、全国で城の復元事業が進行あるいは計画されている。

しかし、江戸時代も後半になると各藩とも持て余し気味になった金食い虫を、なぜ今さら復活させるのだろうか。

現存天守は12しかないのは知られている。

江戸時代にあった城のうち、最初から天守がなかった城もあるが、天守がある城も早い時期に失ってから再建されなかった例もある。

なぜ再建されなかったのかといえば、そんな余裕がなかったからに他ならない。

今や人口減少時代を迎えて、地方を中心に消滅自治体が出ると言われている時代に、建築費だけでなく維持費を無駄に高い城郭建築物を次々と再建させる意味はあるのだろうか。

失われずにいる文化財ならともかく、レプリカごときに多額の費用をかけて、故郷のシンボル、観光の名所とか言ったどころで、名前も聞いたことがない城を立派に再建して本当に人は集まるのだろうか。

名古屋のような大都市ならまだもとは取れるかもしれないが、各県庁所在地レベルでは果たしてどうだろうか。

しかも相変わらずの天守信仰、天守以外は城じゃないみたいな風潮はなんとかしてほしい。

 

天守も作らず、質素な城でむしろ城下の振興に金をかけた藩もある。そちらの方がよほど偉いと思うが、質素な城とバカにされておしまい。

 

言っちゃ悪いが、島原城みたいな分不相応な巨大城を作って反乱を起こしてしまったように、巨大な城など当時の領民には負担にしかならなかっただろう。

そして令和の"金食い虫"後世の負担になるのは日を見るより明らか。

 

江戸時代から残されているからこそ、数が少ないからこそ価値があるのであり、レプリカはいくら忠実に再現したところで、地元の自己満足にしかならない。のちのち負担になるだけのものを、なぜ必死に作ろうとするのか理解できない。

 

維持費が安い小さな櫓や門、土塀でも城の雰囲気は出せる。別にそれでいいじゃないか。

 

 

 

 

"賊軍は県名と県庁所在地名が違う"の嘘

https://news.yahoo.co.jp/articles/22f44185912a7facf69f493bb92931002ef28563?page=1

県庁所在地と名前が違う県は「"賊軍"の藩が多い」説は本当か?

 

宮武外骨は、「其府県の名称に斯くまで順逆を表示した史実の存することを、何人も知らずに、ここ七十年を過して来たのは実に迂潤の次第であった、これも国体明徴の史実として、早速小学校の教科書にも入れねばならぬ程の事であろう」と書いています(『府藩県制史』94ページ)。

 

宮武外骨のこの説がなぜか今も信じられていのだが、そもそも宮武の論は矛盾している。

"日和見藩"として名前が上がっている宇和島や土浦などが県庁所在地だったのは、3府72県の第一次統合時である。

もし、そのとき"処分"が行われていたら、"仙台県"や"盛岡県""若松県"などがなぜあったのだろうか。

なお、宇和島については県令が"宇和島は僻遠の地であり旧号によって悪い習慣に染まったままであるので神山県にしたい"と明治政府に申し出ている。

 

その後、再統合で今の府県にだいたい固まったさいに仙台県は宮城県になっているが、この時も県令が"旧称を用いることは、とかく人心が因習から離れられない情実の原因になっているので宮城県に変更したい"と政府に希望しているのである。

 

川越が県庁所在地にならなかったのは、最初からその予定がなかったからに過ぎない。埼玉県は当初岩槻を県庁所在地に考えていたが、適当な建物がなかったため浦和にした。

佐倉は第一次統合時は印旛県の県庁所在地の予定だったが、結局流山が所在地になった。城跡を陸軍に取られ県庁にする場所がなかったためである。流山にしたのは東京に近く交通の便がよいところに県庁を置きたいと当時の印旛県が志向していたからである。

佐倉が朝敵だからではない。

なお千葉県が誕生したとき、房総半島を含めた県域にしたことから、房総方面にも便利な千葉に県庁をおいただけである。

群馬県は高崎を考えていたが、佐倉とおなじく高崎城が陸軍の駐屯地になったため、やむなく前橋にしただけだし、長野は中野一揆で県庁が北部の長野に避難してそのままになった。

長岡ではなく新潟が県庁所在地になったのは、天領の主要地に県庁を置く明治政府の方針である。

また佐渡島新潟県なのだから、佐渡への船便がある新潟に県庁を置くのは妥当である。

一方、東北で勤王だった秋田は江戸時代は久保田であり、秋田は明治に改名した。しかも秋田は郡名でもある。

これは鹿児島にもいえ、こちらも鹿児島郡である。

少なくとも、朝敵だから県名を変えたという例は見つからない。

 

いったいいつまでこのような都市伝説が信じられるのだろうか。

 

 

 

 

歴史の様々な見方

秀吉は左遷人事のつもりだったのに…徳川家康が「関東への国替え」を大チャンスに変えられたワケ - プレジデントオンライン #文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/60737?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink

 

100人いたら100通りの見方があるんだな、と最近よく思うのだが、なかにはトンデモに近い説もなくはない。

家康が秀吉に関東という辺境に左遷されたという俗説もその一つ。

古今東西、むしろ信頼している者に都から離れた戦略的要地を任せるのは定石である。

周が天下を取ったとき、最も信頼していた同盟者の召公を都から遥か離れた辺境の、今の北京付近に領地替えしたのは、召公を軽んじたのではなく、北の守りの最重要拠点だったからである。秀吉と家康は周王室と召公の関係に近い。

秀吉が関東以北に興味なかったという説もあるが、関東に制せば東北にも睨みがきくことは、秀吉でも知っていた。ただ自らが手を下すのではなく、信頼できる家康に任せたのだろう。

ついでに開発余力の大きな関東の開発も見込んだはずだ。ただ、関東は辺境の貧しい地域ではなく、太閤検地でも武蔵、常陸、下総は全国の中でも米の生産高は10本の指に入っていた。

 

この場所を子飼いの部下に任せたら光秀みたいなことになるかもしれないし、分割して統治させると関東の場合、室町期のように諸勢力が対立しやすい。

 

そう考えると、秀吉の家康への信頼はかなりのものだった。

また江戸についても、秀吉ではなく家康自ら選んだという説もある。

江戸が何もなかったについては、家康の神格化のためにわざとそう記したとされる。

江戸は水陸の交通の要衝で、今の行徳(千葉県市川市だが江戸川区にかなり近い)は関東最大の塩の産地で、品川の湊も水運が盛んだった。

京や大坂からみれば田舎だろうが、関東ではむしろ開けた地域の一つであった(他を凌駕していたわけではないが)

家康の関東での事業では利根川東遷が特筆される。

これは江戸を水害から守るより、年間を通じて水量が少ない鬼怒川流域に比較的水が豊富な利根川の水を送って、水運業や新田開発をしやすくした。

東関東は江戸時代に江戸の食糧庫として栄えたが、利根川東遷が第一歩であった。

 

 

 

皮肉なことに家康が移った江戸、召公が移った燕(地方名今の北京を中心にした地域)がどちらも今は首都になっている。

 

 

 

曹操の父の出自

つい最近、ネット記事で三国志の英雄である曹操の父の出自についての話があった。

 

正史では曹操の父曹嵩の出自は不明とされている。

曹嵩は夏侯惇夏侯淵の一族とする説もあるが、実際はわからない。

その記事には、養子は同姓の者しかとらない慣習があったから夏侯家から曹家に養子は出さないと書かれていたが、それ以前の問題がある。

 

曹操の祖父にあたる曹騰はよく知られているように宦官である。

彼が少年時代に去勢して宦官になったことについて、その記事はよくわからないとしているが、実は後漢時代は縁故採用の時代であり、王朝の高官にコネがないと官僚として採用されなかった。

それは士大夫と呼ばれる豪族出身の知識人に限られており、庶民はまず縁がなかった。

曹騰の父の曹節は普通の農民だったらしい。

庶民は財産がないから、三男、四男など下の男子まで分け与えるものはない。

そのため、後継になる見込みのない男子は去勢して宦者とした。

当時豪族は召使として宦者を大量に必要としていたから、王朝に採用されなくても食いはぐれることがなかったらしい。

曹騰は幸い宦官になれ出世して長い期間宦官のトップとして君臨し、莫大な遺産をのこした。

宦官は子が作れないため、爵位を貰っても一代きりだが、後漢末に養子を取ることを認められていた。

ただ、士大夫は宦官を蔑んでいたため、宦官に養子を出すはずがない。

そのため宦官は素性がよくわからない庶民やその辺りの棄子を自分の養子にしたらしい。

夏侯家がもし士大夫の家なら、曹嵩は夏侯家の出である可能性はなくなる。

曹家自体は曹騰のおこぼれで富貴になったあと、学問を積んで官僚に採用される者が何人か出て大いに栄えた。曹嵩自体は宦者ではないから、曹一族の一人として士大夫扱いされるようになるが、どうしても出自に不明確さが残る。

曹操にとって、曹嵩の子の系統以外の曹姓は血が繋がっていないので注意。曹騰の兄弟などの子孫である。

 

曹操のライバル劉備は正史がなぜか貧乏暮らしをしたみたいな記述を入れたので庶民出身と誤解されているが、祖父が孝廉に推され(縁故採用された)東郡范県の県令になったと書かれているから、士大夫の家なのは間違いないとされている。

確かに皇室の血をひいていても稀少価値はない。

劉備の出身は今の北京近郊で、前漢時代は国境警備の拠点として複数の皇族が王として付近を治めていた。その皇族から枝分かれした家系がたくさん土着しており、光武帝の頃には無数存在していたらしい。光武帝自体がそんな家系の一つであった。(景帝の子長沙王劉発の子孫だが直系ではなく連枝である)

劉備の家がそんな皇族から枝分かれして土着した一族の子孫だったのはほぼ確実らしい。

 

なお劉表や劉焉など前漢皇室の末裔が多いのに後漢皇室の子孫がでてこないのは、前漢の皇族は任命された地域に実際に赴任したのに対して、後漢は直接統治が禁止されたからである。

後漢皇室の領地は一郡に限られ、しかも代官である国相が治めた。だから後漢では国相と郡太守は名称が違うだけで実質同じである。

分家は地方にいたらしいが領地は小さく貧かったらしい。霊帝は解瀆亭侯、つまり諸侯だったが前漢のように万戸ももらえず、諸侯時代は貧乏だったという。彼が諸侯から思わず皇帝になっても王朝も財政難のため売官を始めたのは有名である。

 

孫権の家は水運で財を為した一族であると考えられている。当時の水運業者は盗賊や同業者の妨害を排除するため武装していたらしい。

2019年夏に東京国立博物館などで開かれた三国志展では、呉の水運が盛んである資料が展示されていた。

この時代の船の模型が、当時の資料から復元されていたが、マストが2本あるずいぶん大型な船である。

こんなのが何艘も川の上に浮かべば、水の要塞にもなる。

展示された木簡には3世紀の肉筆が残り、内容も運搬された荷物が書かれていたり生々しい。

 

江南は豪族があちこちに分立していて誰が立っても角が立つため、武力はあるが非名門だった孫一族のほうがむしろまとめ役として相応しいとされたらしい。

 

 

 

 

四面楚歌の真相

孤立無援、絶対絶命を意味する故事成語としてお馴染みである。

 

紀元前202年の垓下の戦いで、楚の項羽が敵から多くの楚歌、つまり自分の国の歌が聴こえたことで絶望したという史記の記事から由来する。

 

しかし、少しでも読書に慣れていて推理能力があれば、この記事に矛盾があることがわかる。

 

四面楚歌の推移はこうである。

○広武山の戦いで項羽と劉邦が講和する。

劉邦が講和を破って項羽を追撃

○固陵の戦いで項羽軍と劉邦軍が激戦

○食糧不足の項羽軍は本拠地の彭城(徐州)に向け退却を始める

○この間劉邦は各地の勢力に連絡を取り、劉邦軍は120万に膨れ上がる。

○すでに敵が攻めていた彭城に戻れず、さらに楚の本国(だいたい淮河以南)の留守を任せた周殷が裏切ったことで行く手を失った項羽淮河の北にある垓下に籠る

○垓下の攻撃は劉邦の配下だった名将で、この時斉王(今の山東省付近)であった韓信の軍30万が行った。

項羽は何回か韓信と戦ったが兵をほとんど失ってついに追い詰められた

○その夜韓信の部隊から楚の歌が多数聴こえてきた

○それを聴いた項羽は自分の国の人が多数敵になったと絶望し、酒宴を開いて明日精鋭とともに突破すると決めた

○足手纏いになる虞美人はこの時自害した

○翌日垓下を数十騎で脱出した項羽は漢軍を蹴散らしながら南下するが、烏江(長江)のほとりにたどり着いた時はただ項羽1人になった。

○川を渡れば逃げられると言う船頭の言葉を聞かず漢軍が近づくと自害した

 

この中で、昔から問題視されていたのが、楚歌をうたった人達が韓信率いる斉兵30万ということである。

 

始皇帝の統一(紀元前221年)から19年しか経ってなく、それまでは斉と楚は別の国であり言語も文化も違う。

 

斉兵に楚歌を覚えさせるのは、江戸時代の津軽の人に琉球の民謡を教えるようなものである。

1日や2日で覚えるわけがない。

 

歴史小説家達もここで首を捻った。

司馬遼太郎は物理作戦を好む韓信が戦意を喪失させる心理作戦をするのは彼らしくないとして、歌は楚の歌ではなく項羽が聴き間違えたと推理している。

 

司馬遼太郎の大学の同窓生で歴史小説家だった陳舜臣は逆に、韓信は心理作戦が得意だったから韓信の作戦であると解釈している。ただ、韓信の率いた斉兵が楚歌を歌えたか、もし違うなら誰が歌ったかはふれてない。

 

上記の経過をみるともう一つ矛盾がある。

司馬遼太郎も指摘していたが、項羽は垓下に入る前に楚の留守をさせていた周殷が劉邦に寝返ったことを知っている。だから垓下という半端な場所に籠ったのである。

 

垓下の南、九江や六辺りはもともと項羽の部将だった黥布の勢力圏で、彼は早くから劉邦に味方していた。一時黥布は項羽によってこの地を追われていたが、垓下の戦いの時点では元の領地に返り咲いていた。

すでに項羽は楚人がたくさん敵に回ったことを知ってから垓下に入ったのだ。

 

最後、垓下から脱出した項羽は、はるか南の長江まで辿り着いている。

韓信は背水の陣が有名であるが、自分達を囮にしても敵を逃さず討ち取る作戦を取ってきた。

仮に韓信の作戦としても、項羽がその気になれば長江の南に逃げられたのだから作戦は失敗である。

また項羽もせっかくはるばる長江まで逃げてそこで自害するなら、垓下で自害しても大差ない。

このように辻褄が合わないことが多い。

 

同じ史記の記事でも項羽の最期について、四面楚歌もなく、単に垓下で劉邦の部将灌嬰の軍に捕らえられて殺されたというものがある。

 

実は烏江のほとりで項羽軍を追撃してきたのもこの灌嬰だった。なぜか韓信は追撃していない。

 

歴史学者達は史記は伝聞や地元の伝承をそのまま載せるため、四面楚歌の話は創作であるとする。

最後の脱出の話も脆くも滅びた天下人に対する判官贔屓があったという。

四面楚歌もなく、垓下であっさり戦死したのが真相に近いらしい。

 

虞美人については花の名にもなっているが、史記では姓は虞、漢書では名は虞となっている。こちらは実在しなかった可能性が高いとされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

史実の見極めのむずかしさ

https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2022/03/10/161024

 

武田勝頼は武田家を滅ぼした凡庸な人物という評価が定着している感があるが、実際は武田信玄が滅亡の種を蒔いたといえるかもしれない。

武田信玄上杉謙信はどちらも後継者をきちんと決めずに家に禍根を残した点、三国志袁紹劉表に似ている。

武田家滅亡のきっかけとなった長篠の戦いもよくわかっていないらしい。

古来、新兵器の鉄砲が威力を発揮した戦いとして知られるが、有名な三段打ちは伝説としても鉄砲が活躍した証拠はない。

確かなのは武田家がたくさんの主要な部将をたくさん失ったことである。

 

今川義元織田信長が討った桶狭間の戦いも信長の奇襲が近年否定されている。

 

これまで史実と考えられたことが覆ることは案外よくあることで、有名な四面楚歌も単なる伝説とされている。

 

まして人物評価はなお難しい。

徳川綱吉は犬公方と呼ばれて暗君の代表とされていたが、今は15代の将軍の中で屈指の名君とされている。

彼が掲げた文治政治、特に無用な殺傷を禁じるために出したのがあの生類憐みの令だと言われている。

行き過ぎがあったのは確かだが、一定の効果はあったらしい。

 

上記文中ではルイ16世が例として挙げられているが、実は本人は名君だったにも関わらず制度疲労により国を失い後世暴君の烙印を押された人物としては殷の紂王を挙げたい。

酒池肉林や炮烙の刑という悪政を続けて周に滅ぼされた紂王は、20世紀に殷の都の跡である殷墟が発掘され、大量の甲骨文が発掘されると、実は政治熱心で遊んでいる暇がなかったことがわかっている。

(なお殷の紂王は周の命名で、甲骨文では帝辛と表記される)