歴史の様々な見方
秀吉は左遷人事のつもりだったのに…徳川家康が「関東への国替え」を大チャンスに変えられたワケ - プレジデントオンライン #文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/60737?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink
100人いたら100通りの見方があるんだな、と最近よく思うのだが、なかにはトンデモに近い説もなくはない。
家康が秀吉に関東という辺境に左遷されたという俗説もその一つ。
古今東西、むしろ信頼している者に都から離れた戦略的要地を任せるのは定石である。
周が天下を取ったとき、最も信頼していた同盟者の召公を都から遥か離れた辺境の、今の北京付近に領地替えしたのは、召公を軽んじたのではなく、北の守りの最重要拠点だったからである。秀吉と家康は周王室と召公の関係に近い。
秀吉が関東以北に興味なかったという説もあるが、関東に制せば東北にも睨みがきくことは、秀吉でも知っていた。ただ自らが手を下すのではなく、信頼できる家康に任せたのだろう。
ついでに開発余力の大きな関東の開発も見込んだはずだ。ただ、関東は辺境の貧しい地域ではなく、太閤検地でも武蔵、常陸、下総は全国の中でも米の生産高は10本の指に入っていた。
この場所を子飼いの部下に任せたら光秀みたいなことになるかもしれないし、分割して統治させると関東の場合、室町期のように諸勢力が対立しやすい。
そう考えると、秀吉の家康への信頼はかなりのものだった。
また江戸についても、秀吉ではなく家康自ら選んだという説もある。
江戸が何もなかったについては、家康の神格化のためにわざとそう記したとされる。
江戸は水陸の交通の要衝で、今の行徳(千葉県市川市だが江戸川区にかなり近い)は関東最大の塩の産地で、品川の湊も水運が盛んだった。
京や大坂からみれば田舎だろうが、関東ではむしろ開けた地域の一つであった(他を凌駕していたわけではないが)
家康の関東での事業では利根川東遷が特筆される。
これは江戸を水害から守るより、年間を通じて水量が少ない鬼怒川流域に比較的水が豊富な利根川の水を送って、水運業や新田開発をしやすくした。
東関東は江戸時代に江戸の食糧庫として栄えたが、利根川東遷が第一歩であった。
皮肉なことに家康が移った江戸、召公が移った燕(地方名今の北京を中心にした地域)がどちらも今は首都になっている。
曹操の父の出自
つい最近、ネット記事で三国志の英雄である曹操の父の出自についての話があった。
正史では曹操の父曹嵩の出自は不明とされている。
曹嵩は夏侯惇や夏侯淵の一族とする説もあるが、実際はわからない。
その記事には、養子は同姓の者しかとらない慣習があったから夏侯家から曹家に養子は出さないと書かれていたが、それ以前の問題がある。
曹操の祖父にあたる曹騰はよく知られているように宦官である。
彼が少年時代に去勢して宦官になったことについて、その記事はよくわからないとしているが、実は後漢時代は縁故採用の時代であり、王朝の高官にコネがないと官僚として採用されなかった。
それは士大夫と呼ばれる豪族出身の知識人に限られており、庶民はまず縁がなかった。
曹騰の父の曹節は普通の農民だったらしい。
庶民は財産がないから、三男、四男など下の男子まで分け与えるものはない。
そのため、後継になる見込みのない男子は去勢して宦者とした。
当時豪族は召使として宦者を大量に必要としていたから、王朝に採用されなくても食いはぐれることがなかったらしい。
曹騰は幸い宦官になれ出世して長い期間宦官のトップとして君臨し、莫大な遺産をのこした。
宦官は子が作れないため、爵位を貰っても一代きりだが、後漢末に養子を取ることを認められていた。
ただ、士大夫は宦官を蔑んでいたため、宦官に養子を出すはずがない。
そのため宦官は素性がよくわからない庶民やその辺りの棄子を自分の養子にしたらしい。
夏侯家がもし士大夫の家なら、曹嵩は夏侯家の出である可能性はなくなる。
曹家自体は曹騰のおこぼれで富貴になったあと、学問を積んで官僚に採用される者が何人か出て大いに栄えた。曹嵩自体は宦者ではないから、曹一族の一人として士大夫扱いされるようになるが、どうしても出自に不明確さが残る。
曹操にとって、曹嵩の子の系統以外の曹姓は血が繋がっていないので注意。曹騰の兄弟などの子孫である。
曹操のライバル劉備は正史がなぜか貧乏暮らしをしたみたいな記述を入れたので庶民出身と誤解されているが、祖父が孝廉に推され(縁故採用された)東郡范県の県令になったと書かれているから、士大夫の家なのは間違いないとされている。
確かに皇室の血をひいていても稀少価値はない。
劉備の出身は今の北京近郊で、前漢時代は国境警備の拠点として複数の皇族が王として付近を治めていた。その皇族から枝分かれした家系がたくさん土着しており、光武帝の頃には無数存在していたらしい。光武帝自体がそんな家系の一つであった。(景帝の子長沙王劉発の子孫だが直系ではなく連枝である)
劉備の家がそんな皇族から枝分かれして土着した一族の子孫だったのはほぼ確実らしい。
なお劉表や劉焉など前漢皇室の末裔が多いのに後漢皇室の子孫がでてこないのは、前漢の皇族は任命された地域に実際に赴任したのに対して、後漢は直接統治が禁止されたからである。
後漢皇室の領地は一郡に限られ、しかも代官である国相が治めた。だから後漢では国相と郡太守は名称が違うだけで実質同じである。
分家は地方にいたらしいが領地は小さく貧かったらしい。霊帝は解瀆亭侯、つまり諸侯だったが前漢のように万戸ももらえず、諸侯時代は貧乏だったという。彼が諸侯から思わず皇帝になっても王朝も財政難のため売官を始めたのは有名である。
孫権の家は水運で財を為した一族であると考えられている。当時の水運業者は盗賊や同業者の妨害を排除するため武装していたらしい。
2019年夏に東京国立博物館などで開かれた三国志展では、呉の水運が盛んである資料が展示されていた。
この時代の船の模型が、当時の資料から復元されていたが、マストが2本あるずいぶん大型な船である。
こんなのが何艘も川の上に浮かべば、水の要塞にもなる。
展示された木簡には3世紀の肉筆が残り、内容も運搬された荷物が書かれていたり生々しい。
江南は豪族があちこちに分立していて誰が立っても角が立つため、武力はあるが非名門だった孫一族のほうがむしろまとめ役として相応しいとされたらしい。
四面楚歌の真相
孤立無援、絶対絶命を意味する故事成語としてお馴染みである。
紀元前202年の垓下の戦いで、楚の項羽が敵から多くの楚歌、つまり自分の国の歌が聴こえたことで絶望したという史記の記事から由来する。
しかし、少しでも読書に慣れていて推理能力があれば、この記事に矛盾があることがわかる。
四面楚歌の推移はこうである。
○広武山の戦いで項羽と劉邦が講和する。
○食糧不足の項羽軍は本拠地の彭城(徐州)に向け退却を始める
○この間劉邦は各地の勢力に連絡を取り、劉邦軍は120万に膨れ上がる。
○すでに敵が攻めていた彭城に戻れず、さらに楚の本国(だいたい淮河以南)の留守を任せた周殷が裏切ったことで行く手を失った項羽は淮河の北にある垓下に籠る
○垓下の攻撃は劉邦の配下だった名将で、この時斉王(今の山東省付近)であった韓信の軍30万が行った。
○項羽は何回か韓信と戦ったが兵をほとんど失ってついに追い詰められた
○その夜韓信の部隊から楚の歌が多数聴こえてきた
○それを聴いた項羽は自分の国の人が多数敵になったと絶望し、酒宴を開いて明日精鋭とともに突破すると決めた
○足手纏いになる虞美人はこの時自害した
○翌日垓下を数十騎で脱出した項羽は漢軍を蹴散らしながら南下するが、烏江(長江)のほとりにたどり着いた時はただ項羽1人になった。
○川を渡れば逃げられると言う船頭の言葉を聞かず漢軍が近づくと自害した
この中で、昔から問題視されていたのが、楚歌をうたった人達が韓信率いる斉兵30万ということである。
始皇帝の統一(紀元前221年)から19年しか経ってなく、それまでは斉と楚は別の国であり言語も文化も違う。
斉兵に楚歌を覚えさせるのは、江戸時代の津軽の人に琉球の民謡を教えるようなものである。
1日や2日で覚えるわけがない。
歴史小説家達もここで首を捻った。
司馬遼太郎は物理作戦を好む韓信が戦意を喪失させる心理作戦をするのは彼らしくないとして、歌は楚の歌ではなく項羽が聴き間違えたと推理している。
司馬遼太郎の大学の同窓生で歴史小説家だった陳舜臣は逆に、韓信は心理作戦が得意だったから韓信の作戦であると解釈している。ただ、韓信の率いた斉兵が楚歌を歌えたか、もし違うなら誰が歌ったかはふれてない。
上記の経過をみるともう一つ矛盾がある。
司馬遼太郎も指摘していたが、項羽は垓下に入る前に楚の留守をさせていた周殷が劉邦に寝返ったことを知っている。だから垓下という半端な場所に籠ったのである。
垓下の南、九江や六辺りはもともと項羽の部将だった黥布の勢力圏で、彼は早くから劉邦に味方していた。一時黥布は項羽によってこの地を追われていたが、垓下の戦いの時点では元の領地に返り咲いていた。
すでに項羽は楚人がたくさん敵に回ったことを知ってから垓下に入ったのだ。
最後、垓下から脱出した項羽は、はるか南の長江まで辿り着いている。
韓信は背水の陣が有名であるが、自分達を囮にしても敵を逃さず討ち取る作戦を取ってきた。
仮に韓信の作戦としても、項羽がその気になれば長江の南に逃げられたのだから作戦は失敗である。
また項羽もせっかくはるばる長江まで逃げてそこで自害するなら、垓下で自害しても大差ない。
このように辻褄が合わないことが多い。
同じ史記の記事でも項羽の最期について、四面楚歌もなく、単に垓下で劉邦の部将灌嬰の軍に捕らえられて殺されたというものがある。
実は烏江のほとりで項羽軍を追撃してきたのもこの灌嬰だった。なぜか韓信は追撃していない。
歴史学者達は史記は伝聞や地元の伝承をそのまま載せるため、四面楚歌の話は創作であるとする。
最後の脱出の話も脆くも滅びた天下人に対する判官贔屓があったという。
四面楚歌もなく、垓下であっさり戦死したのが真相に近いらしい。
虞美人については花の名にもなっているが、史記では姓は虞、漢書では名は虞となっている。こちらは実在しなかった可能性が高いとされる。
史実の見極めのむずかしさ
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2022/03/10/161024
武田勝頼は武田家を滅ぼした凡庸な人物という評価が定着している感があるが、実際は武田信玄が滅亡の種を蒔いたといえるかもしれない。
武田信玄、上杉謙信はどちらも後継者をきちんと決めずに家に禍根を残した点、三国志の袁紹や劉表に似ている。
武田家滅亡のきっかけとなった長篠の戦いもよくわかっていないらしい。
古来、新兵器の鉄砲が威力を発揮した戦いとして知られるが、有名な三段打ちは伝説としても鉄砲が活躍した証拠はない。
確かなのは武田家がたくさんの主要な部将をたくさん失ったことである。
今川義元を織田信長が討った桶狭間の戦いも信長の奇襲が近年否定されている。
これまで史実と考えられたことが覆ることは案外よくあることで、有名な四面楚歌も単なる伝説とされている。
まして人物評価はなお難しい。
徳川綱吉は犬公方と呼ばれて暗君の代表とされていたが、今は15代の将軍の中で屈指の名君とされている。
彼が掲げた文治政治、特に無用な殺傷を禁じるために出したのがあの生類憐みの令だと言われている。
行き過ぎがあったのは確かだが、一定の効果はあったらしい。
上記文中ではルイ16世が例として挙げられているが、実は本人は名君だったにも関わらず制度疲労により国を失い後世暴君の烙印を押された人物としては殷の紂王を挙げたい。
酒池肉林や炮烙の刑という悪政を続けて周に滅ぼされた紂王は、20世紀に殷の都の跡である殷墟が発掘され、大量の甲骨文が発掘されると、実は政治熱心で遊んでいる暇がなかったことがわかっている。
(なお殷の紂王は周の命名で、甲骨文では帝辛と表記される)
軍師について
https://president.jp/articles/amp/55290?page=1
上記で紹介した記事については、東大の先生とはかなり意見は違うが、結論だけは同意する。
日本には元来軍師はいなく、黒田孝高や竹中半兵衛、直江兼続などは後世の軍記物のなかで「軍師」とされたに過ぎない。
そして、一番肝心なのは諸葛亮でさえ「軍師」ではなかったことである。
上の記事中、司馬懿については軍師ではなく政治家と紹介しているが、司馬懿は一応魏の驃騎将軍→大将軍と武官のトップにいた。
それに対して諸葛亮は蜀の丞相であった。
丞相はいうまでもなく首相のことであり、文官の最高位である。
丞相は本来都にいて最前線にはいかない職である。
中国では戦国時代には文官と武官の役割分担が始まったと考えられている。
特に徹底したのは秦の商君である。
武功をあげた将軍が必ずしも政治的才能があるとは限らないのに、政府高官に就くのは国に害を与えるという発想から、文官と武官を分け、武官で軍功をあげたものには爵位を与えることで政治への介入を防いだのである。
この制度を受け継いだ秦は、始皇帝のときに天下統一を果たすが、始皇帝や文官は最前線には一切出ず、他の六国は全て軍官(王翦や王賁、李信などの将軍)が遠征を行った。
次の前漢時代も武帝の匈奴遠征は、主に衛青や霍去病といった将軍が行っており、武帝は最前線に出ていない。
軍師として知られる張良は、国の主である劉邦が常に最前線にいたから、一緒に最前線にいたに過ぎない。
劉邦が都にいれば参謀も一緒に都にいただろうが、最前線にいたからそこで活躍せざるを得なかっただけである。
張良の軍師像はあくまでも結果論であり、しかもそのような参謀は稀であった。
太公望は近年の殷墟から発掘された卜辞研究から、実在しないと考えられている。
太公望を祖先とする斉は、卜辞から殷に従っていたことがわかっており、殷滅亡に斉の裏切りが大きな原因であるという説が有力である。
斉はのちに殷に仕えていた歴史を抹消するために、太公望を祖先として捏造したとされる。
呉が荊州返還を求めて魯粛らに出兵させた事件のときも、劉備は諸葛亮を蜀に置いたまま荊州に向かっている。
ところで、文官は文人が、武官は武人がなる職と考えられがちである。
しかし、中国の文人と武人は、日本でいう公家と武家の区分とは全く違う。
文人は学問を修めた知識人のことであり(後漢〜三国時代に「士大夫」と呼ばれていた人達がそれに相当する)、武人は単なる兵士に過ぎない。
中国は伝統的に文人優位であり、武人を政治から遠ざけたのも文人優位にするためである。
後漢以降文人は単なる行政家ではなく、スペシャリストが求められた。
つまり、文人はいざという時に将軍にもなるのである。
劉備の恩師である盧植は、黄巾の乱の時に官軍の司令官となったが、もともとは儒学者として知られていた。
曹操に仕えた鍾繇は馬超らとの戦いに活躍したが、王羲之が出るまでは書道の第一人者と言われた。
後世になるが、詩人で有名な唐の李白や学者であった明の王陽明なども反乱軍と戦っている。
西行は歌人で有名だが、もとは屈指の剣豪だったらしい。しかし源頼朝が剣の話を聞きたがったが、隠居の身だからと一切話さなかったエピソードが残る。
日本と中国では文化の担い手がそもそも違う。
中国は現役の政治家が詩人や学者であった。それどころか君主が文化のリーダーだった例も少なくない。
曹操と息子の曹丕、曹植が古代中国屈指の詩人(三曹)、文章家なのは有名であるが、唐の玄宗も当時屈指の作曲家であった。玄宗の歌劇団は梨園というところに集められ、この梨園は今も歌舞伎界を指す言葉として日本に残っている。
だから、スペシャリストとしての文人である諸葛亮も劉備が亡くなった後は戦場に赴いたのである。
彼が名軍師にされたのは、後世からの判官贔屓である。
国力と人材の差を考えれば、実際諸葛亮は善戦したといえる。
また諸葛亮が軍師とされたのは、彼の政治思想が「法家」だったからでもある。
法家の政治家は、秦の商君や李斯、韓非(韓非子)などがいるが、後世の評判はよくない。(李斯は「焚書坑儒」を行ったとされ特に嫌われている)
法家の同系統に兵家という学問があり、こちらは孫子が有名であり、孫子は好かれている。
諸葛亮が法家なのは、劉備が劉禅に遺言で読めと言った書物のなかに、商君書があることでもわかる。
また蜀に入ったあと二言目には法律と言う諸葛亮に、法正が苦言をしたエピソード、
さらに「泣いて馬謖を斬る」はついては後世の学者から「蜀は人材が少ないのだから再起の機会を与えるべきだったのに殺してしまうのは所詮法家のやり方だ」と批判まである。
判官贔屓をするには法家の政治家では具合が良くないため、むりやり兵家として稀代の天才軍師にしたのが講談の諸葛亮である。
諸葛亮も作られた軍師に過ぎなかったのである。
なお三国志演義は、元末明初に作られたとされている。
その頃活躍した朱元璋(明の洪武帝)の事績がもとになる話が含まれているという説もある。
赤壁の戦いは、朱元璋と陳友諒の鄱陽湖の戦いがモデルとされている。
また諸葛亮は朱元璋の名参謀であった劉基がモデルといわれている。
ただし劉基も絵に描いたような軍師ではない。
軍師はあくまでも講談のなかの架空の存在に過ぎないのだ。
最初に書いたとおり、日本の戦国時代に活躍したとされる軍師も、中国の講談をもとに江戸時代に作られた存在に過ぎないのである。
日本は信長や秀吉など、主君自らが動くために宰相型の家臣すら必要ないと言う。(歴史学者の貝塚茂樹が指摘している)
まあ日本では「宰相」というと、藤原摂関時代や鎌倉執権時代のように、トップが飾りになってしまうから、そもそも戦国時代のような時代には向かなかったのだろう。
城ブームへの違和感
城めぐり、城ブームは何回か波がありましたが、歴史ゲームの影響もあってか、歴史好きやお城好きがこれまでになく増えた感じがします。
YouTubeなどを見ても歴史モノ、お城モノにはハズレが少ないというくらい、たくさんの動画が上がっており、いずれの投稿者もたくさんのフォロワーがついています。
ただ、なんか浮かれ過ぎているような気もして、素直に喜べない自分がいます。
特にお城については、かつてのように「建てたもの勝ち」みたいな実在しなかった、あるいは史実とだいぶ違う天守のオンパレードは文化庁の規制がキツくなってなくなったものの、
相変わらず「天守=城」としか見なさない人が多くて、これだけは正直ウンザリします。
あえていいます。
「寺でいえば天守は五重塔に過ぎない、なぜ本堂は無視して五重塔ばかり大事にするのか」
「天守は創建時から中身は空っぽのハリボテである」
好きな城、嫌いな城のアンケートで、ダントツで人気がないのは大阪城です。
なぜ人気がないかといえば、理由はほぼ「史実無視」の天守を挙げています。
大阪城はあの立派な石垣ですでに比類なき城郭遺構だというのに、まったく天守しかみてないことがわかります。
天守は偽物でも石垣は本物だし、一度失った天守は建築基準法などの縛りがあり完全な復元はできず、仮にできても所詮レプリカです。
そんな風潮は自治体にも未だに残っています。
昭和の模擬、復興天守(要は史実からかなり離れた天守)のラッシュは、「まず天守ありき」から来ていますが、それは今も大きくは変わりません。
「史実を無視して少し立派なのを建てる」から「木造でできるだけ忠実に復元する」になりましたが、一度失ったものはレプリカに過ぎず、歴史的価値は下にある石垣にははるかに劣ります。
石垣を維持しながらの復元ならまだいいですが、ひどいものは石垣を破壊して天守を建てた例もあるから驚きです。
ここまでくるともはや「天守信仰」としか呼べなくなります。
天守は大きな櫓に過ぎず、領民や街道を参勤交代などで通る他の大名への威嚇にはなったでしょうが、元来住む場所ではないので、階段はキツく中身も木材剥き出しで何の装飾もありません。
最初からハリボテです。
名古屋城の木造復元がうまく進行しないのは、いろいろ原因がありますが、あのまま復元しても石垣がもう耐えられないという専門家の指摘もあります。
まさかどこかの城みたいに石垣が危ないなら壊してしまえとは、国特別史跡の名古屋城ではできないでしょう。
名古屋城はせっかく立派な本丸御殿を復元して、良い方向に進んだと思いましたが、石垣よりまず天守のような流れは「名古屋よお前もか」としか言いようがありません。
城主の居住地、政務の中心は御殿で、城で一番大事なのは御殿ですし、その内装は当時の武家文化のコアでもあったはずです。
しかし御殿の再建はあまりなく、右も左も天守天守というのが、私には「本堂より五重塔を大事にする」ような違和感しかないのです。
そして、下の石垣よりも上の建物ばかり目がいくのもいかがなものか。
確かにあの大阪城も下の石垣より上にばかり目が行った結果の産物ですが、それを促したのも天守=城としか考えない人達だったことは忘れてはならないと思います。