cosmos369luckyの日記

歴史や城などについて語ります

軍師について

https://president.jp/articles/amp/55290?page=1

 

上記で紹介した記事については、東大の先生とはかなり意見は違うが、結論だけは同意する。

日本には元来軍師はいなく、黒田孝高竹中半兵衛直江兼続などは後世の軍記物のなかで「軍師」とされたに過ぎない。

そして、一番肝心なのは諸葛亮でさえ「軍師」ではなかったことである。

上の記事中、司馬懿については軍師ではなく政治家と紹介しているが、司馬懿は一応魏の驃騎将軍→大将軍と武官のトップにいた。

それに対して諸葛亮は蜀の丞相であった。

丞相はいうまでもなく首相のことであり、文官の最高位である。

丞相は本来都にいて最前線にはいかない職である。

中国では戦国時代には文官と武官の役割分担が始まったと考えられている。

特に徹底したのは秦の商君である。

武功をあげた将軍が必ずしも政治的才能があるとは限らないのに、政府高官に就くのは国に害を与えるという発想から、文官と武官を分け、武官で軍功をあげたものには爵位を与えることで政治への介入を防いだのである。

この制度を受け継いだ秦は、始皇帝のときに天下統一を果たすが、始皇帝や文官は最前線には一切出ず、他の六国は全て軍官(王翦や王賁、李信などの将軍)が遠征を行った。

次の前漢時代も武帝匈奴遠征は、主に衛青や霍去病といった将軍が行っており、武帝は最前線に出ていない。

軍師として知られる張良は、国の主である劉邦が常に最前線にいたから、一緒に最前線にいたに過ぎない。

劉邦が都にいれば参謀も一緒に都にいただろうが、最前線にいたからそこで活躍せざるを得なかっただけである。

張良の軍師像はあくまでも結果論であり、しかもそのような参謀は稀であった。

太公望は近年の殷墟から発掘された卜辞研究から、実在しないと考えられている。

太公望を祖先とする斉は、卜辞から殷に従っていたことがわかっており、殷滅亡に斉の裏切りが大きな原因であるという説が有力である。

斉はのちに殷に仕えていた歴史を抹消するために、太公望を祖先として捏造したとされる。

諸葛亮は、劉備が最前線にあってもほとんど国にいた。

呉が荊州返還を求めて魯粛らに出兵させた事件のときも、劉備諸葛亮を蜀に置いたまま荊州に向かっている。

劉備がいた時期の諸葛亮はあくまでも文官だったのである。

ところで、文官は文人が、武官は武人がなる職と考えられがちである。

しかし、中国の文人と武人は、日本でいう公家と武家の区分とは全く違う。

文人は学問を修めた知識人のことであり(後漢三国時代に「士大夫」と呼ばれていた人達がそれに相当する)、武人は単なる兵士に過ぎない。

中国は伝統的に文人優位であり、武人を政治から遠ざけたのも文人優位にするためである。

後漢以降文人は単なる行政家ではなく、スペシャリストが求められた。

つまり、文人はいざという時に将軍にもなるのである。

劉備の恩師である盧植は、黄巾の乱の時に官軍の司令官となったが、もともとは儒学者として知られていた。

曹操に仕えた鍾繇馬超らとの戦いに活躍したが、王羲之が出るまでは書道の第一人者と言われた。

後世になるが、詩人で有名な唐の李白や学者であった明の王陽明なども反乱軍と戦っている。

 

藤原定家世阿弥元清が軍隊を率いて戦った話は聞かない。

西行歌人で有名だが、もとは屈指の剣豪だったらしい。しかし源頼朝が剣の話を聞きたがったが、隠居の身だからと一切話さなかったエピソードが残る。

日本と中国では文化の担い手がそもそも違う。

中国は現役の政治家が詩人や学者であった。それどころか君主が文化のリーダーだった例も少なくない。

曹操と息子の曹丕曹植が古代中国屈指の詩人(三曹)、文章家なのは有名であるが、唐の玄宗も当時屈指の作曲家であった。玄宗歌劇団梨園というところに集められ、この梨園は今も歌舞伎界を指す言葉として日本に残っている。

だから、スペシャリストとしての文人である諸葛亮劉備が亡くなった後は戦場に赴いたのである。

彼が名軍師にされたのは、後世からの判官贔屓である。

国力と人材の差を考えれば、実際諸葛亮は善戦したといえる。

また諸葛亮が軍師とされたのは、彼の政治思想が「法家」だったからでもある。

法家の政治家は、秦の商君や李斯、韓非(韓非子)などがいるが、後世の評判はよくない。(李斯は「焚書坑儒」を行ったとされ特に嫌われている)

法家の同系統に兵家という学問があり、こちらは孫子が有名であり、孫子は好かれている。

諸葛亮が法家なのは、劉備劉禅に遺言で読めと言った書物のなかに、商君書があることでもわかる。

また蜀に入ったあと二言目には法律と言う諸葛亮に、法正が苦言をしたエピソード、

さらに「泣いて馬謖を斬る」はついては後世の学者から「蜀は人材が少ないのだから再起の機会を与えるべきだったのに殺してしまうのは所詮法家のやり方だ」と批判まである。

判官贔屓をするには法家の政治家では具合が良くないため、むりやり兵家として稀代の天才軍師にしたのが講談の諸葛亮である。

諸葛亮も作られた軍師に過ぎなかったのである。

なお三国志演義は、元末明初に作られたとされている。

その頃活躍した朱元璋(明の洪武帝)の事績がもとになる話が含まれているという説もある。

赤壁の戦いは、朱元璋と陳友諒の鄱陽湖の戦いがモデルとされている。

また諸葛亮朱元璋の名参謀であった劉基がモデルといわれている。

ただし劉基も絵に描いたような軍師ではない。

軍師はあくまでも講談のなかの架空の存在に過ぎないのだ。

最初に書いたとおり、日本の戦国時代に活躍したとされる軍師も、中国の講談をもとに江戸時代に作られた存在に過ぎないのである。

日本は信長や秀吉など、主君自らが動くために宰相型の家臣すら必要ないと言う。(歴史学者貝塚茂樹が指摘している)

まあ日本では「宰相」というと、藤原摂関時代や鎌倉執権時代のように、トップが飾りになってしまうから、そもそも戦国時代のような時代には向かなかったのだろう。